「もしも人生のやり直しが可能だとしたら?」
この「もしも」の話は、とても楽しいお話だ。
「もしも人生のやり直しが可能だとしたら、君は何をしたい?」
「どの瞬間に戻りたい?」
「今と違う人生を送る?」
こんな「もしも」の話を、誰かとの会話のタネにすると、会話の相手が大切にしてることや、大切にしたい価値観の片鱗が見えるので、すごい面白い。
相手のことを知るために、この「もしも」の話はすごい有益だ。
単純に「もしも」の話をすることは楽しいし、相手のことを少し理解することまでできるなんて、なんて素敵な、そして、万能な話題なんだ……
そんな風に思っていた。
そこから、自分の中では、次の思索に進んだようだ。
「もしもこの人生が『やり直し』そのものだとしたら?」
すなわち、以前どこかの段階まで人生の歩みを進めた「他の」自分がいたと仮定して、その自分が何かをやり直したいと願った。その結果として、「今の」自分がいる……という考え方だ。
もしかしたら、「今の」自分の人生は、「他の」自分が、つまり、「他の世界線の」自分が、やっとの思いで掴み取ったやり直しの機会なのかもしれない。
「他の世界線の」自分は、「何か」をどうしても実現したくて、その者がいた世界線とは、「他の世界線」を目指したのかもしれない。
この「もしも」の話は、空想にすぎない。しかし、「反真実」であると断定することもできない。
この「もしも」の話が「真実」である可能性はないわけではないのだ。
違う世界線の自分が存在していて、その自分は何らかの努力を重ねて、その努力のおかげで自分が今「やり直し」の歩みの途中にいるのかもしれない。
そんなほんのわずかな、本当にわずかな可能性を考えると、「今の」人生はすべての世界線の中でも最重要かもしれないし、この世界線にいられることは本当に幸せなのかもしれない。
そのような考えが、(おそらくそうだが)想像上の産物であるにすぎないにせよ、今この瞬間を何よりも大切にすることは、決して罰当たりではない。
今この瞬間を大切に過ごし、どの世界線の自分に対しても、もっと言えば、どんな人間に対しても、胸を張って「精一杯生きたよ」と言えるような人生を送るに越したことはない。
このことを出来るだけ忘れないようにしよう。
そんなことを1人空を眺めながら考えた日曜のお昼でした。
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